3/22 戯言「この気持ちが灰色だから」

※注意 センシティブなことだったり、暗い話をたらたら書きますので苦手な方は回れ右でお願い致します。
なんとなく気持ちが沈んでいるので、
自分語りをして気持ちの整理をしたいなと筆を取り始めました。
完全に主観の気持ち悪い自分語りになるけど、自分のブログだから許して(´-ω-`)
深く僕と付き合ってくれている人は、
なんとなく気付いて居るかもしれないけれど
僕には「希死念慮」の感覚がある。
さらに深く気分が落ちると「自殺願望」として顕著にそれが滲み出てくるような形だ。
どうしてそうなってるのかな、と色々思考を巡らせるのだけど
「元々そうであった」のでは無いか、という考えしか出てこない以上、幼少期の体験がおそらくそういう気持ちを形成したのだろうな、と思うのです。
僕は、両親ともに「聴覚障害者」の世界で育ちました。
こういった状態の子供のことを学術的に「コーダ」と呼びます。

J-CODA(Japan Children of Deaf Adults) / セルフヘルプという力 / 東京ボランティア・市民活動センター

聴覚障害者を親に持つ聞こえる子ども(以下、コーダ)が、成長する中でどのような困難や悩みを抱えているのか、その実態は当事者ではない人には分かりにくい現状があります。コーダの当事者として活動を続けている村下佳秀さんと中津真美さんにお話をうかがいました。元々コーダという言葉はアメリカから入ってきたのですが、1994年に世界ろう者会議が開催された際に、聴覚障害当事者の子ども(成人)も一緒に集まったことが、コーダという言葉や捉え方が始まったきっかけと言われています。日本でもその後コーダの集まりができ、当事者たちによる活動が始まりましたが、コアメンバーへの負担などの理由から一時期活動を休止し、2000年後半ごろに再開されました。活動の初期にはまだコーダを表す手話もなかったぐらいでしたが、その後少しずつ市民権を得て来ました。最近は新聞に取り上げられることも増え、とてもうれしく思っています。コーダは、親が全く聞こえないろうあ者なのか、多少は聞こえる難聴者なのか、両親ともそうなのか、親の一方がそうなのか、手話を使うのか等で細かい違いはありますが、聞こえない親と聞こえる社会の間で様々な軋轢を経験せざるを得ない場合が少なくありません。まず家庭での生活ですが、聞こえる親子の家庭とはあらゆる点で様相が異なります。一例ですが、親は声で子どもを呼べますが、子どもは親が自分を見ていなければ、声で呼んでも伝わりません。距離が離れている時に子が何か物を投げて呼ぶなんていう場合もあります。当然そういうことをすると怒られますが(笑)。親に代わって電話をかけたり、受けたりすることも頻繁にあります。ある人の例ですが、小学生の頃、駐車場の契約更新について親にかかってきた電話にでなければなりませんでした。限られた語彙しかない小さな子どもが「ちゅうしゃじょう」を手話で通訳して親に伝えたら、どうなったと思いますか。子どもは先方の話を音で聞いているので「駐車」が「注射」となり、「注射する場所」になってしまいました。親は「注射」するところは病院なので、医者の話かと思ってしまう。その上で「けーやく」とか「こーしん」とか言われても、もはや話は通じません。結局契約は更新されず車を停めることはできなくなり、その子は親に叱られました。このようなことはコーダにとっては珍しくない経験ですが、積み重なると、子どもは電話に出るのがすっかり

www.tvac.or.jp

⬆️参考サイト
このコーダという状態。
このサイトにも書いてあるし、wikiとかでもあがってるんですが、割と未だに「研究」がされてる状態です。
僕も、何度かコーダ協会みたいなところで話を聞かせて欲しいって、呼ばれてた時期があります。
(研究者なのか、記者だったのかよくわからないけれど)
この「コーダ」というものは、ある程度の言語を習得してから、「子供」という立場を捨てさせられ、「親を支える立場」を強いられる場面が多く出てきます。
耳の聞こえない人の喋り方って、自分の声が聞こえていないから、なんか、変にくぐもった感じの話し方になるんですよね。
だから、健常者の人が聴覚障害者の人の声を聞くと「なんて言ってるのかわからない」という感想を持つ事が多いんですよ。
でもそんな声も、ずっといっしょに過ごしてきたらだんだん慣れるし、そもそもそういう声だ、って理解しているからそんな声でも何を言ってるかはわかるんですよね。
なので、手話が出来ても出来なくても関係なく。
「通訳」としての稼働を強いられるんです。
僕の両親は、特にそれが顕著だったのかも知れません。
病院の予約から、スーパーでの買い物、マルチ商法との契約、商品のクレーム、色々な「声」と「耳」が必要な現場によく連れられて、「スピーカー」として働かなきゃいけないんですよね。
僕の場合は、手話もできてしまったのでなおさらだったのかも知れません。
幼稚園の年中さんくらいから、その「通訳活動」は当たり前になっていました。

今でもよく覚えている、記憶に残る通訳の現場は
僕がしてしまった、友達との喧嘩で、相手のお母さんから電話凸がきて
それを自分で親に説明しながら、泣きながらごめんなさいした時ですかね。
あれは酷かったです。

両親は耳が聞こえないっていう理由で、親戚間から爪弾きにされていたんですね。
特に母は、耳が聞こえないことをいい事に陰口叩かれ放題だったので、なおさら肩身狭かったんだと思うんですよ。
でも聞こえなくても。それが「優しい雰囲気」なのか「そうじゃないのか」はわかるじゃないですか。
だからなんでしょうね、元々破天荒な性格だった母は、その人達に自分なりの「声」で喧嘩吹っかけたりしていたわけですよ。
で、その相手が運の悪い事に「同じ幼稚園」にいたんですよね。
で、子供って親の言うこと割と聞いてるじゃないですか。どんな、言葉も覚えてるけど、特に「悪い言葉」は覚えちゃうんですよね。
で、悪気は多分、無かったと思いたいですが
「にょすけの親は耳が聞こえないから気持ち悪い」って言われてしまったんですよね、その子に。
なーにいうとんじゃ貴様ー!と。
ブチ切れてしまった僕は心のままに、その子を押してしまったんですね。ちょっと小突いたかんじ。

そしたら泣かれちゃったのですね。
痛かったのか、びっくりしたのか。

小突いた僕が悪い。手を出した方が悪いのは、100も承知の上で。
ただそれでもあれは、「子供同士の喧嘩」の範疇であったと今も思うわけです。
しかしそうは問屋が卸さない、と言わんばかりに。
その子の親から、にょすけ宅に怒りの電話が入ります。
「あんたがそんな事するからうちの子がこんなに痛がってる!」
「親の教育はどうなってるんだ、きちんと親に伝えろ!」
「誠心誠意の謝罪をしろ!」
と電話越しに怒鳴られたのを、今でも覚えています。

幼稚園の年中といえば、五歳くらいですよ。
クレヨンしんちゃんと同じくらい。
他人の親に電話越しに怒鳴られながら「何があったの?説明しなさい」と、隣にいる母にもせっつかれ
泣きながら通訳、そしてその内容に激怒した母は何故か僕に平手打ち。
「大切にしてやってるのにその言い方はなんだ!」と怒られたのは、未だに納得が出来てないです。
(おそらく泣きながらだった為に通訳なのか、僕の言葉なのか分からなかったのでしょうが)



こんな感じの事が沢山ありました。
些細なこととかなら、マックのドライブスルーとかも注文がうまく伝えられなくて
アップルパイとポテトパイを間違えたところ、『なんできちんと通訳しないんだ!』と殴られたりとかね。
そんな事が多々あって、一時期失語症のような状態になってしまったりして
齢10歳、小学4年生くらいかな?
行きつけの耳鼻科で、鼻吸引を1人でしてる時に看護師さんがひそひそと放った、

『ほら、あの子。耳の聞こえないにょすさんちの。いつも可哀想にね。』

という言葉で完全に心が折られましたね。
あ、可哀想なんだな、と。

その頃、母が第2子を流産し荒れていたことや
家に入り浸り、父の居ない時間に父の布団で寝ていた謎の色黒サーファーの存在(ここで説明すると情報のデパートになってしまうので割愛)や、更に過酷さを増す親戚間でのギスギスと、父方の祖父母と両親の確執……からの千葉への夜逃げなど。
あ、ダメもう既に情報過多。マルチ商法に両親騙されるの巻、とかもありました。

で、まぁそのそれぞれの出来事に
『通訳』として自動参加させられていた為
なんかもう親というか大人シンジラレナァーイ(CV千葉繁)な状態が深刻化してたんですね。

すべてがすべて、両親のせいとも
障害のせいとも言いません。
ただ、『環境』が悪かった。
だからなのか、物心着く前から、選択肢のひとつの中に必ず『死のう』が入るようになっていました。
これが僕の『希死念慮』。
それを、形成していったエピソードのひとつなのだと思います。
そして、見事に根暗な性格に成り下がった事と
両親の異質さから、中学生ではいじめを経験。
2年生からだったかな……
ドラマで見るようないじめの、身体に痕が残らないものとかは大体経験したと思います。
今でも、『箸の先端』と『たわし』は苦手。
割と恐怖しながら、日々使ってます(´-ω-`)
何されたかは結構えぐいのでここでは割愛。
興味本位で、とか
創作のネタで使いたい方は、個別連絡ください。
幼少期から中学卒業まで、もう毎日心が震えるような出来事ばかりで
よく死に至らなかったな、と今でも不思議に思うのと
よく耐えたなぁって、たまに幼少期の自分を褒めてやる事があります。
でも多分『死にたい』はあれど『死ぬのが怖くない』わけではなく、その辺り普通に僕は怖がりであったこと。
そして、紛れもない、『だーじゅ』……祖母との繋がりがあったから、死ななかったのだと思います。
↑ボイコネにあがっている『祖母』との出来事がわかるやつ
『コーダ』の中でも割かし珍しい分類に入る事例かもしれないけれど、多くのコーダが似たような『つらい』を経験してきているのだと思います。

だから、僕は手話が少し怖いです。
素晴らしい手段だと思います。
大事な特技です。でも、少し怖い。
言葉にして整理して、
あーやっぱりそうだよな、って納得が出来たことでこの文章の本懐は遂げているので
公開にする必要もないのですが

似たような境遇、気持ちの人が
この文章を見たら安心が出来ることも知ってるから

その人たちの為に公開します。

僕は、こんな感じだったけど
でも今なんとか『生きてみる』が出来てるよ。

over.

臍帯とカフェイン

サイコパスとスーサイドの夜明け。 小説/台本/SS/現代詩/コミュニティ

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