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臍帯とカフェイン|声劇シナリオ・ポエトリー

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カケヨルメソッドこぼればなし①声劇シナリオを作者自ら育てると言うおはなし

カケヨルメソッドを書くにあたって、色々な事を自分自身見つめ直したり

どんなことをしていたかな、なーんていうのを思い返してみる時間が増えた。


その中で、思う「作品を育てる」という話を少ししていこうかなと思う。


と、言ってもまだまだ著者も道半ば。

声劇という界隈の中でのてっぺんがあるとしたら、まだ1合目にも到達していないし

文学、物書きの界隈で言ったらまだまだ足下にも及ばない。


ただ、これを書いて居る5年目、いや6年目に入った声劇シナリオライター

(自認としてはインターネット声劇ライターマンだけど)

の確実な軌跡として、これを書き記しておこうと思う。


実際、著者の声劇シナリオの始まりはおおよそ5年前。

好きだったセリフ読みキャストさん(渋イケボ)に自身を認知して欲しくて

その人の声でシナリオを書き始めたのが著者の始まりだった。

そう、推し活がはじまりだったのである、しかも言うなれば厄介系の「認知してほしみ勢」であったからたちが悪い。


そのキャストさんの為に書いた作品が「沖田メンタるクリニック」という、精神科医が神様を相手にトンデモカウンセリングをするコメディ台本だった。

その人からの「これ面白いからボイコネにアップしなよ」という言葉がなかったら、著者の声劇ライター人生は始まっていなかったと思う。


ボイコネに投稿してからは、やきもちをする毎日だった。

多くの声劇ライターがシナリオを投稿する中、著者の作品は伸び悩んでいた。

手に取ってくれる人がほとんど無い作品もその頃は多かった。

推しの為に書いた「沖田メンタるクリニック」も、一部の方には面白いと手に取って貰える。

でも、続いて書いた続編は何ヶ月も上演数0、お気に入り数0、なんてこともあった。


苦し紛れに「活舌迷宮」という作品を書いた。

それはお世辞にも文学作品とは呼べず、滑舌練習をおもしろおかしく出来るようにという

「ゲーム性」を込めた作品だった。


これが若干、著者の執筆人生を救う。


文学的な意味合いで好まれることのない、色モノ作品ではあったが手に取られる事が増えたのだ。

何度も何度も、失敗するたびに初めに戻って滑舌練習をしなければいけないゲーム型のシナリオを、毎日練習する人がいた。

上演されればされるほど、それは一番の「広告」となってくれていた。


不思議なもので、その「色モノシナリオ」が日に5回、8回と上演回数が増えていくと

他のシナリオも手に取られるようになってくる。


日々の苦しみを描いた朗読作品から、

ギミックを考えて書き込んだヒューマンドラマ。

そして「沖田メンタるクリニック」の続編も。

徐々に徐々に、認知されるようになっていった。


そんなさなか、合作台本として作成した「Visit」というシナリオが

突如ボイコネのシナリオランキングにて1位を獲得することになる。

多い時でVisitは月に200上演を超える事もあった。


Visitがいきなり認知度が上がったことは、著者にとって良いことでもあり、地獄でもあったのだが、一旦今は話として関係ないので割愛しようと思う。

(まあ、あれだよあれ、よくあるでしょ、匿名掲示板でいっぱい色々書かれちゃうってやつ。)


その後、Visitで獲得できた認知度を消費(そうあえて書こう、消費と)しながら

毒にも薬にもならないかも知れないシナリオを書きながら日々を過ごしていた。

そう、低迷を繰り返したのだ。

もちろん、上演回数は伸びていく。でもそれは、Visitだけ。

他に投稿したシナリオは、まったくもって響かない。


………という、気持ちに駆られていた。

そんなことは無かったはずなのに。まったくそんなことは無かった。

月のうち、1回でも2回でも上演されていたらそもそも御の字だったのだ。ありがたいことだったのだ。


でも、なまじ流行りを経験してしまうと、そこの感覚が麻痺してくる。

何をどう書いても、上演回数がVisitを越えない。まったくだ。

何をどう書いても、Visitより面白くない、そういう感覚になっていった。

当時、見に行ってしまっていた「匿名掲示板」では「Visitの一発屋」

「ハンニバル・レクターのパクリ」「身近なキャストに推されてるだけのライター」など書かれていた著者は、どんどん「自己嫌悪の沼」に墜ちていく。


当時、ボイコネではプロの声優さんを招いて実施していたボイコネラジオというラジオがあった。

そこで、ボイコネ内に投稿されている作品を、運営が選び実際に声優さんが演技をするという規格があった。それが「スター放送」だった。

(今確認したらまだXのポストが残っててちょっと懐かしくなってしまったのは内緒)


そこで、「そのあじを食べるのは私だ」という過去に書いたコメディシナリオが使用された。

これもまた、自分の心を折る出来事になっていた。


このスター放送という企画では、今でも前線で声劇ライターをしている

人気ライターの人達が名前を連ねていた。(名前は出さないけど!)


その人達の作品と、比べてみた時に

どうしても自分の作品がそのライターさん達の肩に並べているとは、思えなかったのだ。

むしろ、「ああ、これで多分自分は更に才能が無いと匿名掲示板では書かれるのだろうな」という気持ちでいっぱいだった。

(もちろん選ばれたうれしさもあったけど、そんなの一瞬で終わりなのだ。)


とにかく自己嫌悪の日々だったように思う。

実際、ボイコネのシナリオランキングは楽しかった。

順位が出て、自分の立ち位置を見る事ができて、自己研鑽ができて。

趣味で行うには分相応な、「本気っぽさを演じられる」要素の一つだった。

だが、実際、ボイコネのシナリオランキングは呪いでもあった。

(ただし、この呪いを今は悪いものだとは思っていない)


1位を獲得できたのは、一番最初のシナリオランキングでのみ。

それ以降は万年2位どまりだった。


実際、2位をとれてたら十分すごい事だと今は思う。

よくやったほうだと思うのだ。でも、何度も言うが、「麻痺していた」。ただそれに尽きるのだ。


いや、2位ってすごくない?万年2位って。十分すぎるでしょ。

1位じゃないけど、全然いっぱい使って貰えてるんだよ?ほら見て、月に50回も使われてる。

え?満足できない?こりゃだめだ、もうだめ、あんたはイカれちまってるね。

はいはい、もう無理無理、戻ってこれないよ、一回味わっちゃってるからね。

はい、おつかれさん。


そんな感じの自己否定の日々に突入する。


これが案外、メンタルには響いていた。

何と戦っているのか?何の為にそれを目指しているのか?

もうガバガバで、バカバカ、がむしゃらすぎるだけだったのだ。


そんな中で、著者はひとつの作品を書く事になる。

それは、もう筆を折ってもいいかも知れないと思う日々の中でひねり出した作品だった。

当時、コロナの影響で仕事を失い、諦めの気持ちで転職をしたばかりの状態。

リアルでも、ネットでも、うまくいかない日々。

もう、これでダメなら死んでやったほうがいいな。なんてことまで考えていた。


そんな転職の研修の最中に、あまりにも研修が暇すぎて

ノートの端に書き始めたプロットが、「green boots」だった。


今思えば、烏滸がましいプロットであったとも思う。

天才ではない自分が、天才役者の苦悩を書いて居るのだ。とても笑える。

「それは自分がそうであったとでも言いたいのか?」なんて考えも毎日横切っていた。

「結局、これらは自分が誰かに言われて、許されたいだけじゃないのか?」と毎日思っていた。


そんな烏滸がましいプロットから、烏滸がましくもお節介で、

吹っ切れた作品が「green boots」だった。


負の感情から生まれたのだ、この作品は。

著者の持つ、驕りの感情、諦めた気持ち、他者を見下しては見くびって、舐めていた事。

何と何を比較して生きていたのか、意味のない自己嫌悪と

誰かを傷つけていたかもしれない、高飛車な自分。今でもたまにひょっこりと出てくる、承認欲求の化け物が。

この作品を書いたのだった。


劇的に取り繕ってはみてはいるが、ようするに

「自分のことしか考えてない自分が、被害者面して、自分を守る作品を書いた」のだ。

はじまりはそうだった。間違いなく。それであった。この作品は。


結果的に、1位は獲得できなかった。

でも、多くのキャストさん達が「刺さる」と感想を残していってくれた。

それを聞いて、嬉しい気持ち以上に、ひどく反省の日々を過ごしたのだ。


自分自身の創作に対する向き合い方と、自分自身が結局なんの為に書いたのか、という話。

それがからっぽだった。ずっと、おそらく、それを口にするのが怖くて、逃げていたのだ。


だから、ビッグマウスを続けて居た。かっこわるい自分。そんな感じ。

かといってかっこよくなれる気もしなくて、だだをこねるみたいにただ書いては、文句を言うそんな日々。


そして、ボイコネはサービス終了を宣言した。

まずは「声劇アプリ」から「小説アプリ」に変更をするという発表。

その後また、本当のサービス終了が宣言されるのだけれど。


最後のシナリオランキング、どうしても1位をとりたかった。

最初のランキングで1位をとって、最後のランキングでも1位をとる。

結局それになんの意味があるのかはわからない、意味なんて無い,多分ね。

自己満足で、ただ自己顕示欲が強くて、ただ、自分を何かに認めさせたいの気持ちだけで。


でも、諦めきれなかった。1位をとるってことは、自分自身の書く理由にその時はなっていたから。

理由はわからない、目的もわからない、ただ、「一発やで終わりたくない」とか

自分で納得のいっていない今の状況のままで終わりたくない、ただ、何かに認められたい、そんな気持ちだけ。

それが正解だったのか、今でもわからない。でも、狙いたかった。

そして書き上げたのが「green boots」の続編「バルトロマイ」だった。

「バルトロマイ」は、かつて天才と謳われたメイヴ・ハーティが、自分自身を蹴落とした更なる天才クロード・クリスウェルと本音を語り合うというストーリーの構築だった。


おそらくそれは、結局また、自分自身の気持ちを内包した作品。

でも、不思議と悔いはなかった。多分そこでいろんな柵みとか、悩みとか、そういうのを置いてきたんだよね。

もともとできた人間なんかじゃない自分が、書く事で少しだけ人になれるかもなんて感覚もあったのかも。

他の文学界隈の人達や、もっとすごいプロの人達からみたらさ。

著者の言ってることや、している事なんて全然マメツブみたいなもんで

「何を言ってるこのひよっこがぁ」って言われてしまう井の中の蛙的な物語なんだ。


でも、少なからず、著者にとっては、ドラマだった。

これが、著者のドラマチックだった。ドラマツルギーだった。


結果的に、「バルトロマイ」は最後のシナリオランキングで1位を獲得した。

それは、物語の良さとか、そういうことじゃなくて、多分支援してくれたキャスト仲間の力もあったかも知れない。

自分自身の力だけでは、なし得なかった著者なりのドラマだった。


ここまでが、「green boots」と「バルトロマイ」を書いたひとまずの流れ。


そしてボイコネは変化したあとに、サービスを終了した。

そのボイコネのサービス終了と共に実は著者は燃え尽きていた。

と、いうよりもやる気を失っていた。

そりゃそうなのだ、ボイコネというアプリで一位を取ることだけが著者のやりがいになってしまっていたのだから。

なんという子供じみた考え、そして自分勝手な思いだろうか。

1位以外には価値がないとでもいいたげな顔で、日々、声劇シナリオを忘れようとしていた。


そして、約半年、筆を置いていたのだ。

さて、話も長くなってきた。けど、ここまで読んだあなたは是非とももう少しお付き合い頂きたい。


半年筆を置いたあと、久々に書き始めた声劇シナリオは

「ガムボールマシン・ラプソディ」という「green boots」シリーズの続編だった。

この話は主人公を「天才俳優たち」ではなく「売れない画家」に焦点をあてて

創作論や表現論ではなく、彼らの日常や、生活、人生を描いた話だった。


ここから、著者のこのシリーズへの「向き合い方」が変わる。


ただの、著者の説教くさい思想や、昇華したかった悔しさ、苦しみ、悲しさ、傲慢さ。

そういうものをぶつける作品から、「キャラクターの人生を真剣に考えた」作品に変わっていった。

ここからだったのだ。


1位をとったときでもなく、スター放送でピックアップされた時でもなく

著者が、「声劇シナリオライター」にようやく「成った」のは、紛れもなくこの「ガムボールマシン・ラプソディ」からだった。


今でも、書く事を辞めずにインターネット声劇ライターマンを続けて居る著者だが、

これまでに約200本のシナリオ書き上げたにも関わらず、自身の中で一番印象に残っていて大切にしている作品は変わらずこの作品なのだ。


この「ガムボールマシン・ラプソディ」をインターネットの海に流した時、

そこには「声劇アプリ」も「シナリオランキング」も存在しない。


ただ、「そこに作品があって」「それを誰かが手に取って」「遊ぶだけ」というシンプルな構図しか存在してなかった。


「1位をとることが大事じゃないんだ」と、このときに初めて気づいたのだ。

ああ、恥ずかしい話。本当、いやんなる。でも、事実そうなのだ。

何かのジャングルや迷宮の中を踏破していく感覚では無く、

ただ、この広大な海、いや、草原かもしれない、その中にひっそりと作品を置くだけ。

そしてそこで牧歌的に誰かが歌うのを聞くだけ。そういう「創作の楽しみ方の一つ」をそこでようやく知る事になる。


順番が逆だったのだ。天狗にもなっていた。

不相応な認知を得て、ありもしない腕が生えたような感覚がずっとあった。

張り合う必要の無い何かと張り合い、存在しない敵に打ちのめされて、

勝手に自己嫌悪に陥っていく。そういう所から、一歩踏み出して窓をあけたような感覚だった。


そうして、ガムボールマシン・ラプソディをこの海に投下した。


そこから描く物語や、ポエトリーは、少しずつ変化していく。

自分の傷を誰に見せたいのか。自分自身をどこに置きたいのか。

自分は何をしたいのかをよく考えるようになる。


そうしてまた、シナリオの筆を取り始めた。


比較すべき素材は「順位」から、自身のHPの「過去と比べた閲覧数」に変わる。

他者との戦い(しかも身勝手な)から、自分自身との戦いに変化した。


そして、それを繰り返す日々の中で「ボイストランド」という新しい声劇アプリが生まれる。

今、著者はここに身を置いているわけだけど。


また、自分自身との戦いから、他者と作品をすりあわせる日々が始まると思うと

ほんの少しだけ、ボイストランドへの作品投下を迷ったのも事実だった。


でも、この「順位」に悩んだ日々も、それに気づいて落ち込んだ日々も、

また、こうして「順位」では無いにしろ他者の作品と自ずとすり合わせられる日々を迎える事もすべて無意味ではないと思えている。


自身の中で育てるドラマと、他者が存在する事で起りうるドラマ。

それは「どちらかが正しい」のではなく「どちらも必要」なのだ。

悔しいと思う日々も、間違ってしまう日々も、苦しくなる時間も、調子にのる時間も。

それらすべてが、この「green boots」という作品を育ててきた。


その時、その時間、その刹那、その瞬間。

自身が感じたこと、悩んだこと、苦しかったこと、見つけたことがすべて作品には内包されている。


そうして、ここまで育てた「green boots」という作品が今、また、新たな出逢いを育てていたりする。

悩んだ日々を内包させた、それしかないと思っていたあの作品で、今、新しく声劇に触れてくれている人がいる。


この声劇の海に存在する以上、避けては通れないものがある。

「順位」、の前に。まず「作品を手に取られるかどうか」という事だ。

手に取られない作品に意味が無いなんてことは無い。


ライターが作品を書き上げた時点で、その作品にはこの海に生まれた意味が確かに存在する。

それは著者が「green boots」に込めたように、憎しみやつらさや、傲慢さ、自分を守る盾であったり言い訳出逢ったりもするかも知れない。そこには、キズや、愛や、優しさ、勇気のような誰かを思う心が入っているかもしれない。

ただそれだけで、作品には生まれた意味がある。

なぜなら、作者である君にとって、意味があるものだからだ。


でも、我々が作っているのは、「小説」ではない。「エッセイ」ではない。

我々が作り出しているのは「台本・脚本・シナリオ」なのだ。

その作品は、読まれたその瞬間に、本当の意味での完成を得る。

声に出して、からだの動きで、表現のひとつとして手にとられた瞬間に。

君のための意味ではない。この海に放たれた意味を得る。


手に取られない日々が訪れるかも知れない。

誰にも見向きもされず、暗い深海に、沈むような日々が続くかも知れない。

そんなとき、どうしてもライターはこう思ってしまう。

「この作品に生まれた意味なんて無いのかも知れない」と。

「他の作品が使われるから自身の作品は使われないのだ」と他責に走る事もあるかも。


でも、少し待って欲しい、違うんだ、その考えだけは絶対に違う。

その作品が、もし深海に沈んでいるのなら、その作品を救ってあげられるのは作者である君だけなのだ。いいかい、君だけだ。君に言っている。


ボイストランドというアプリでは、すでに1万本以上のシナリオが投稿されている。

投稿の速度は落ちない、日々ライターが増え、シナリオを書きたいと思う人が増え

様々な人がシナリオを投稿している。これがなんと喜ばしいことなのか、誇らしいことなのか。という話は一旦置いて。


「確実に、深海に墜ちてしまう作品は存在する」


でも、「それは救い出すことができる」、いいかい、もう一度言う。

「救い出す事はできる」のだ。


それが「作品を育てる」と言うことであると、著者は思う。

著者自身が、その作品を諦めないこと。何度だって、言えばいい「この作品が自身の傑作である」と。

はじめは沈んでしまっていた作品が、君自身が諦めずに筆を取り続けたことで

君自身にスポットライトが当たる事があるかも知れない。そのスポットライトが当たったときに、君のその空いている手のほうに、その沈んでしまった作品の端があってほしい。


「作品を育てる」というのは、

「諦めない」と言うことだ。


誰よりも、君自身が、君の産み出した作品を「諦めない」と言うことだ。


著者はずっと、自分を恥じて来た。恥ずかしいライターであると感じていた。

でも、せめてこの、産み出した「彼ら」だけは美しいモノであって欲しいと「端っこをずっと持ち続けていた。」

1位に呪われていた時も、他と比べてしまっていた時も、ようやく自分のために書けた時も。

「ひとつも、作品の存在を諦めたりすることだけはしなかった」

こんなに炎上もして、筆も折りかけたのに、だ。


だから、これを読んでいる君に伝えようと思う。

著者のことを、好きじゃなくたっていい、嫌いなままでいい。

何を言っているんだろうと訝しげにしてくれたって構わない。


でも、その、自分が産み出した作品が、いくら沈もうとも

諦めずに持ち続けて居て欲しい、書き続けて居て欲しい。

それが「作品を育てる」という事だと思うから。


このカケヨルメソッドでは、著者の失敗談や、成功体験なんかを中心に

執筆にどう向き合うのがいいんだろう?という話をしている。


書けない夜が、少しでも明るいものになりますように。

ここまで読んでくれてありがとう。


でも、実際思うんだ。

僕はね、「green boots」を育て続けた気持ちだったけど。

僕は、「green boots」に育てられたんだ、ってさ。



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