グライド(朗読)
「親指が時々、僕を押し潰すような気がして。」
「それで、僕は部屋から出れなくなって。」
「壁を伝う僕の影が。」
「きっと、きっと僕をいつか殺すんです。」
始まりはいつも雨だった。
夜汽車はトンネルを抜けないし、
ここは雪国でもない。
ましてや猫が喋るような幻想的な国でもなければ。
洋服箪笥(ようふくたんす)の奥にお姫様なんかいない。
空を飛ぶけむくじゃらのドラゴンも。
気の合うマッドサイエンティストが時空を越えて助けにきてくれることなんて無い。
始まりはいつも雨だった。
紛れもない、この物語は、僕が「死にたい」と思った話なのだから。
空想にふけながら、ノートの端に猫を描く(えがく)。
そうして時間を潰す、数学の授業が心底嫌いだった。
Xに代入されていく、青春の形をした何かが、あたかもそれが正解であるかのように席に着いている。
黒板には、消え損なった日直の田口の名前がずっとそこにあって。
放課後の社会科準備室では、僕の初恋の人がヤンキーとセックスをしていた。
「青春」という名前の毒気に、誰しもが「や」られていた。
その事を除けば、普通の学校生活になるはずだった。
始まりはいつも雨だった。
「親指が時々、僕を押し潰すような気がして。」
「それで、僕は部屋から出れなくなって。」
「壁を伝う僕の影が。」
「きっと、きっと僕をいつか殺すんです。」
そう話すと、医者は何も答えずに
母に筆談で伝える。
「精神が安定する薬をだしておきましょう、息子さんに飲ませてあげてください」
医者の使っていたペンを、母は急かすように奪い取る。
「息子は、だめなのでしょうか」
何も言わない僕を置いてけぼりに、母と医者の筆談は続く。
窓の外を大きめの雨粒が、殴りつけるかのように降り続ける。
傘を持ってくるのを忘れていたな、なんてことを思い出したのと。
そう言えば、破れた学ランは何ゴミに出せば良いんだろうと、ぼんやりと、その事だけを考えていた。
「そうやって、いつも片付け他人にやらせるのやめなよ。」
その一言が、僕の学校生活の全てを消し飛ばしてしまった。
体育の授業のあと、バスケットゴールのネット下で、僕の幼なじみを蹴り飛ばしながら
片付けのすべてを押し付けた不良グループの一人に喰ってかかったのだ。
幼なじみの泣きそうな顔がこちらに向けられている。
「お前、誰に口答えしてるかわかってんの?」
凄みを出しながら、土井と呼ばれたその男は僕の傍に寄りながら額と額をかち合わせる。
今思えば、何故こういう時彼らは額を合わせるのだろうか。
ヘラジカのオスが角を合わせるのと同じなのかな。なんて、今だから言えること。
何かを言い返そうとした次の瞬間には、頭皮に熱と痛みを感じた。
土井は、僕の髪の毛を掴んだまま、体育館から廊下を渡り、校舎へと入っていく。
何度か幼なじみが何かを叫んでいたこと、
土井が笑いながら「こいつウケる」と言っていた事を覚えている。
いつの間にか、頭皮の痛みはそのままに僕の身体は夏祭りの神輿みたいに担ぎあげられていて
そのまま、二階の教室前まで運ばれていた。
僕も抵抗をしながら、なにかを叫んでいたような気もするが何度思い返してもいったい何を叫んでいたのかが思い出せない。
夏祭りと言えば、どうしてりんご飴はいつも最後まで食べきれないんだろう。
どすん、と音が鳴る。
あの、学校特有の横に伸びた水飲み場っていうのは、どうしてああも水捌けが悪いのだろう。
そう、りんご飴の他にもあんず飴なんてものもあるよね。
ぴちゃりと背中に水気を感じる、そうか、今僕は水飲み場に「ハマって」いるのだ。
なんだかんだ言って水飴を飴と呼ぶのはなんだか納得がいかないな。
「ハメ」こまれたと言ったほうが正しいのかもしれない。目の前に蛇口の、口の部分が見える。
へえ。お前、星みたいな形してんだ。
笑い声と、叫び声と、あと笑い声と。
チャイムも、もしかしたら鳴っていたかも知れない。
そろそろ授業がはじまるのかな。でもまだ体操服着替えてないや。
蛇口を捻ると、水が出るって知ってる?
知ってるか、そうだよね、当たり前だもんね。
女子生徒の悲鳴が廊下に響いている。
鼻から、口から、水が入り込んでくる。
なんだか、雨みたいだ。
「壁を伝う僕の影が。」
「きっと、きっと僕をいつか殺すんです。」
始まりはいつも雨だった。
夜汽車はトンネルを抜けないし、
ここは雪国でもない。
ましてや猫が喋るような幻想的な国でもなければ。
洋服箪笥(ようふくたんす)の奥にお姫様なんかいない。
空を飛ぶけむくじゃらのドラゴンも。
気の合うマッドサイエンティストが時空を越えて助けにきてくれることなんて無い。
始まりはいつも雨だった。
紛れもない、この物語は、僕が「死にたい」と思った話なのだから。
空想にふけながら、ノートの端に猫を描く(えがく)。
そうして時間を潰す、数学の授業が心底嫌いだった。
Xに代入されていく、青春の形をした何かが、あたかもそれが正解であるかのように席に着いている。
黒板には、消え損なった日直の田口の名前がずっとそこにあって。
放課後の社会科準備室では、僕の初恋の人がヤンキーとセックスをしていた。
「青春」という名前の毒気に、誰しもが「や」られていた。
その事を除けば、普通の学校生活になるはずだった。
幼なじみは何度も謝ってきた、でも、お前が謝るのは違うじゃん。
だってお前何も悪いことしてないんだもの。
だってお前、ただいじめられてただけじゃん。
そこに、ただ俺は声をかけて。
悪いことを悪いって言って。
ただ、それだけじゃん。
だって、お前、ただいじめられてただけじゃん。
なんで謝るんだよ。
なあ、なんで、それから一度も、話しかけてこないんだよ。
「この学校にいじめはありますか」
「あるとしたら、どうすればいじめは無くなりますか」
「あなたは今、いじめられていますか」
そう書かれたアンケート用紙がクラスに配られたのは、僕が五足目の上履きを買い換えたころだった。
誰もが、いじめは無いと答えたこのアンケート用紙になんの意味があるんだろう?と思考を巡らせながら
自分は提出さえしなかったその用紙を破きながら、図書室隣のトイレに閉じ込められている。
学校のトイレの上部が空いてるのは、バケツに溜めた水を投げ込むためなんだとよく理解できたし
学校には、「何も持って来ては行けない」と言うのを理解した頃には、
さすがに母親も気づき始めていた。
「そうか、私の息子はいじめられているのだ」と。
医者の使っていたペンを、母は急かすように奪い取る。
「息子は、だめなのでしょうか」
何も言わない僕を置いてけぼりに、母と医者の筆談は続く。
窓の外を大きめの雨粒が、殴りつけるかのように降り続ける。
傘を持ってくるのを忘れていたな、なんてことを思い出したのと。
そう言えば、破れた学ランは何ゴミに出せば良いんだろうと、ぼんやりと、その事だけを考えていた。
土井の笑い声が耳から離れない。
寝ている時も、そうじゃない時も。
土井から始まったいじめは、徐々にクラス中に広まり、あの田口すらも、僕の事は何もかも飛ばすようになっていた。
「みんな」、怖いのだ。
たかだか、中学生の不良一人が、怖かったのだ。
思いの外、頭がよく、狡猾な、土井のことが怖くてたまらなかったのだ。
鳴り止まない土井の笑い声を拭いながら、病院で処方箋を待つ僕は一度も母の顔を見ることが出来なかった。
情けなさと、悔しさと、おかしくなったのかも知れないと考えた母が病院に引っ張り出した恥ずかしさも、何もかもが破れた学ランを濡らしていく。
「お大事に」という一言と、軽めの精神安定剤と、睡眠薬の処方箋を手に取った僕の背中から
母の声が聞こえた。
ただ一言。「産んでしまって、ごめんね。」と。
何かが頭の中で切れる音がしたのをよく覚えてる。
そして、横殴りの雨が窓を叩き続ける音も。
母は、とても天真爛漫な人だった。
そして、いつも自信家で、豪快な笑い方をして、そして、耳が聞こえなかった。
ぷつりと何かが切れた音がした後、僕が母に発した言葉は
「産まなければよかったと、思ったの?」
それだけだった。
処方箋は、そのまま帰り道のゴミ箱に捨ててしまった。
その日の夜、僕が放った言葉は母には
「僕ではなく、死産した妹が生きていればよかった」という意味に変換され。
それを聞いた父は、僕の顔面が腫れるほどに拳を殴りつけたのだった。
なんでもない、そのことを除いても、
僕の人生はただ「死にたいだけ」、それを代入した人生だった。
「親指が時々、僕を押し潰すような気がして。」
「それで、僕は部屋から出れなくなって。」
「壁を伝う僕の影が。」
「きっと、きっと僕をいつか殺すんです。」
始まりはいつも雨だった。
夜汽車はトンネルを抜けないし、
ここは雪国でもない。
ましてや猫が喋るような幻想的な国でもなければ。
洋服箪笥(ようふくたんす)の奥にお姫様なんかいない。
空を飛ぶけむくじゃらのドラゴンも。
気の合うマッドサイエンティストが時空を越えて助けにきてくれることなんて無い。
始まりはいつも雨だった。
紛れもない、この物語は、僕が「死にたい」と思った話なのだから。
そうして、順当に心を病んだ僕はその事を「祖母」ー--「だーじゅ」に独白したのだ。
握ってくれたのは、手だけではなかった。
「しばらく、大田区で、こっちで一緒に暮らそう、ね?」
「学校なんかより、楽しい事はいっぱいあるんだから。」
泣きそうな顔なのか、微笑みの顔なのかわからない顔で「だーじゅ」は僕の手をさすり続ける。
僕は、ただただ、頷くことしかできなかった。
ただ、幼馴染はいじめられてしまっただけなのだ。
そして、たまたま土井はぐれてしまっていただけで。
母がただ耳が聞こえなかっただけ。
そして僕は、どうすればいいのかわからなかっただけだ。
「だーじゅ」との日々はとても穏やかなものだった。
週末にはロングランというレストランに行き、大きいエビフライを食べる。
ボーリングに行き、だーじゅの取るストライクがターキーになっていく姿をじっと見る。
「だーじゅ」の忙しい日には、隣に店を構えるレンタルビデオ屋さんで古い映画を借りて
「アム」という名前の猫を撫でながら、日々を過ごすのだ。
「映画館って、行った事ある?」
朝食の目玉焼きを頬張る僕に、だーじゅが問う。
目玉焼きは半熟、下にベーコンが敷いてある。
かりかりというより、じゅくじゅくになったベーコンの塩気が
目玉焼きの淡泊な味と共に喉を通る。
「そういえば、行ったことないかもしれない。」
「よし、じゃあ、いこう。」
そういって、だーじゅは僕を近くの映画館に連れて行ってくれた。
だーじゅが受付でチケットを買い、ポップコーンのバケットを買い
飲み物をどれにするか迷っている間。
僕は「なんだかつまらなさそうな映画だな」と思いながらその映画の看板を眺める。
その映画は、緑色の化け物が出てくる映画で僕はなんとなく面白くなさそうだなって
考えながら何故だかふてくされていた。
案の定、その時の僕からしたらその映画はとても楽しめるものではなく
もくもくとポップコーンを食べ続け、ひどい態度であったようにも思う。
そんな僕の様子を見て、だーじゅは映画館を出るまで何も言わなかった。
バケットの底には、弾けきれなかった硬いままのトウモロコシの粒が何個も残っている。
なんとなく、そのバケットを棄てるのが惜しくて、そのまま持ち帰ろうとしていた。
だーじゅが、帰り道、ぽつりと話し始める。
「たっくん。」
「この先ね、今日の映画みたいに、あなたにとって面白くない事がもしかしたら」
「たくさんあるかもしれない。」
「つまらなくて、楽しめるのはそのポップコーンだけで。」
「でもそのポップコーンだって、食べきってしまえば残るのはその硬い粒だけで。」
「何のためにこんな所にいるんだろうって、きっと、悩むときだってくる。」
でもね、と続ける。
なんとなく僕は、聞いていなければいけないと思い、何も話さなかった。
「そんな時、どうするかは、たっくん、あなたが決めていいの。」
「そのままその映画を見続けてもいい」
「ポップコーンのおかわりを買いにいってもいい」
「その映画を見るのをやめて、立ち去ってもいい」
「でも一つだけ、覚えていて欲しいのはね。」
「その映画を、最後まで見た人にしか、感想は言えないの。」
「面白かったとか、つまらなかったとか。好きなように。」
「あなたが、学校で受けた事はね、とても悲しい事。」
「あなたがこの先、どのように今の人生を送るのか、あなたが決めていい。」
「あなたが、あなた自身が、その人生を最後で投げ出さなければ」
「どんなにつまらない映画でも、どんなに悲しいお話でも、」
「おばあちゃんね、あなたの事を誇りに思う。」
「だから、たっくん、あなたの後悔の無いように、好きなように決めていきなさい。」
「あなたの思う人生を、好きなように。」
「親指が時々、僕を押し潰すような気がして。」
「それで、僕は部屋から出れなくなって。」
「壁を伝う僕の影が。」
「きっと、きっと僕をいつか殺すんです。」
始まりはいつも雨だった。
夜汽車はトンネルを抜けないし、
ここは雪国でもない。
ましてや猫が喋るような幻想的な国でもなければ。
洋服箪笥(ようふくたんす)の奥にお姫様なんかいない。
空を飛ぶけむくじゃらのドラゴンも。
気の合うマッドサイエンティストが時空を越えて助けにきてくれることなんて無い。
始まりはいつも雨だった。
紛れもない、この物語は、僕が「死にたい」と思った話なのだから。
僕は一言も発さないまま、家につき、持ち帰ったポップコーンバゲットの
そこに残ったトウモロコシの粒をかみ砕く。
それはほんの少しの塩気と共に、つぶれ、ぼそぼそと喉奥へ流れていく。
「だーじゅ、だーじゅはさ、今日の映画どうだったの。」
だーじゅが笑いながら言う。
「全然面白くなかった!意味もわからなかったし!」
でも、と続ける。
「あなたと見れたから、私には最高の時間だった。」
そうして笑う祖母の笑顔を思い出すと、僕は今でも「死にたかった」自分を思い出しては
いま「生きたい」と思えるようになった自分の人生の感想を述べるのだ。
だーじゅ、今のところ、僕の人生は、悪くないよ。
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