【朗読】ナアオの観察記録
これより、あの生物(せいぶつ)の観察記録を始める。
あの生物と私の出会いは、よく晴れた日だった。
四角く区切られた天井から覗くその顔は、驚くほどに大きく
目と思われる機関は我々よりも離れており、少なからず私よりも耳も大きく、なにより顔の上部にだけ生えた体毛が非常に長く体を覆っていた。
我々はその生物に、「ナアオ」と一時的に名前を付けることにした。
「ナアオ」とは、我々の古い言葉で「興味のある物」という意味だ。
ナアオは、とても不可思議な生き物であった。
巨大な身体を持つ割に、その実とても臆病で小さな虫にさえ勝てぬ事もある。
かと思えば、自身の身体より大きな獲物を捕まえ、乗り回す姿を見ることもできることから
おそらくナアオには充分な知性があるように思う。
というのも、この研究対象となる我々が確保したナアオだけでなく、他のナアオも合わせてよく言葉を発することがわかった。
我々に対してや、他の生き物などにも何やら言葉を投げかけている。
しかし、その度に自身の牙を剥き出しにする事が多いことから、その全ての言葉が友好的であるようには思えなかった。
しかし、発する言葉は決まって同じ事が多く、どう言った意味を持つのかわからないが「オシアノ」「アアイイエ」などの単語を発している。
おそらくこの言語の解読が、この生物の謎を解く鍵となるのであろう。
時折、ナアオはこの研究施設から抜け出す事がある。
あの巨体でどのようにしてすり抜けて行くのかわからないが、どうにも巨体に似つかわしくない俊敏さを併せ持つ可能性がある。
しかし、またこれも不思議な事に彼らは自身の食料を調達する術を持たない。
かさかさと音の鳴る薄い皮袋に、どこかから施しを受けた食べ物を持ち帰ってくることがある。
生物として、とても欠陥の多い習性であるように思う。
時折、私が代わりに食料を調達し提供をすると、悲鳴をあげ走り回る事がある。
どのようにしてこの生物が、今まで生き延びて来たのか興味が絶えない。
観察を十数年続けてきたある日、私はこの惑星において逃れられない禁忌の病にかかった。
この頃には、ナアオとは言葉は通じずとも
意思疎通が取れていると感じるくらいには多くの事が伝わるようになっていた。
どうやら、「オシアノ」とは好意を示す言葉であり主にナアオの機嫌が上昇している時に発する言葉であることがわかった。
もしかすると、ナアオにとってその「オシアノ」という言葉が私の事を呼ぶ名称の一つなのかもしれない。
「アアイイエ」も、同様な意味があるように感じる。
ナアオは、私の病の事を感じ取っているらしく
私の匂いを嗅ぐ事が増えた。
ナアオ達にとって、匂いというのは重要なものであるらしく
特に長く研究施設を抜け出した後は甘えすぎでは無いだろうかと感じる程に私の匂いを嗅いだ。
私のおでこや腹からは、もしかするとナアオ達巨大生命体達にとって喜ばしいフェロモンのようなものが出ているのかも知れない。
ナアオの顔の中心部には、我々よりも大きく、高い鼻のような機関が付属している為
匂いをつよく感じる事ができるのだろう。
匂いを嗅いだ後のナアオは、いつも以上に穏やかによく眠った。
最近目が霞み、ナアオの表情が上手く読み取れない事がある。
ナアオの名前を呼ぶと、すぐさま私の傍に近寄り、寂しげな声で様々な言葉を発する。
彼らは我々が思う以上に、知的な生命体であり
強く死を感じ取る事のできる生物である。
ナアオは、目と思われる機関からよく水を流している。
例えば、研究施設内にある四角くて明るい箱を見ながら水分を噴射することが多い。
その水分には味があり、どうやらそれは塩気であるように思う。
我々も時折、目から同様のものを放出することがあるがナアオのそれは我々のものとは少し違った。
大抵、その水分の放出が終わるとナアオは私の元に来て、必ずと言って良いほどに匂いを嗅ぐ。
それが、彼らなりのコミュニケーションの方法なのかもしれない。
ある日、ついに私の目は微かな明かりしか感じ取れないようになった。
この研究報告も、ついに終わりを迎えるかもしれない。
自身で食料の調達が出来なかったナアオは、何度も何度も私の為に食料を調達するようになった。
実に、成長したものである。
私の身体を心配しているのであろう、悲しげで不安な声色で「オシアノ」「オシアノ」と言葉を発する事が増えた。
私はその度に、名前を呼んでやる。
ナアオ、と名を呼んでやる度に、ナアオはとても喜んだ。
とても単純で、可愛らしい奴だ。
時折、研究施設の窓から我々の仲間の声が聞こえてくる。
その声は時折争っていたり、時には愛し合うような声も聞こえる。
私は、このナアオという生物に魅了され、生涯を研究に費やした身だ。
他の仲間たちとの交流を求めた日もあったが、結果的にこのナアオという生き物の生体を研究することが出来てとても幸せであったように思う。
私の目は、完全に開かなくなった。
厳密に言えば、開いているのかもしれないが
もう何も見ることはできなかった。
赤い顔をして刺激臭を漂わせながら寝床に潜り込むナアオの事も、
あの奇妙な箱を見ながら急に踊り始めた事も、
小さな黒き羽を持つ食料を見つけ叫び出した事も、もう見ることは出来ない。
結局、この巨大生命体の事など何一つ理解でき無かったかもしれない。
ただ、我々に対してとても友好的な態度を取り
知的な生命体であり
我々の体臭が酷く好きで、
我々を愛してやまない、愛すべき生き物であることしか理解できなかった。
何度も、不安げな声で言葉を発している。
その度に、彼らの名前を呼んでやる。
大きな手で、私を潰すことなく覆う。
彼らは、他の生き物を愛すことの出来る生き物なのだ。
私は、そんな生命体を研究することができて幸福であったかもしれない。
掠れそうな声で、「オシアノ」「アアイイエ」と繰り返し言葉を発している。
この耳が最後に聞く言葉が、その言葉で私はよかったと思う。
最後にナアオと呼んでやる。
おそらくまたこの生き物は、酷く水分を噴出しているのであろう。
気が済むまで、私の匂いを嗅ぐといい。
私はこの愛すべき生き物の研究に携われて、とても、幸せであった。
これにて、観察記録を終わる。
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