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臍帯とカフェイン|声劇シナリオ・ポエトリー

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素晴らしい一日のほんの数ミリ。(1:1:0)

【配役】

◆瑠乃介:

 りゅうのすけ


◆心春:

 こはる




山椒魚という物語を、思い出す。



心春:おかえりなさい、瑠乃介(りゅうのすけ)さん


瑠乃介:ただいま、心春(こはる)



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:井伏鱒二(いぶせますじ)の書いた『山椒魚(さんしょううお)』という短編小説の事を思い出す。

瑠乃介:それは、身体の大きくなってしまった山椒魚が塒(ねぐら)から出られなくなる話だ。



心春:ねえ、瑠乃介さん、そこにいる?


瑠乃介:ああ、いるよ、今背広を脱いでいるところだ。


心春:よかった、やけに静かだから、荷物を置いてすぐに行ってしまわれたのかと。


瑠乃介:心配性だな、心春は。

瑠乃介:僕がどこに行くと言うのかね。


心春:わからないの、でも、とても不安なの、いつも、いつでもね。


瑠乃介:(モノローグ)妻の心春は、身体の痛覚が生まれ付きなかった。

瑠乃介:酷い時は触覚すらも機能しておらず、誰に触れられたか分からないどころか、今自分の身体がそこにあるのかどうかも分からない事もあったという。

瑠乃介:「先天性無痛無汗症」というのだと、妻は自分がおぼこである事を話す時よりも顔を赤らめて話すものだから。

瑠乃介:そんな姿がなんだか庭に成ったミニトマトのようだとからかったものだ。



心春:お仕事は、どうでしたか?


瑠乃介:なに、なんて事ないよ。


心春:通勤の電車の中は、疲れませんでしたか。


瑠乃介:慣れたものさ。


心春:お腹は空いてはおりませんか。


瑠乃介:帰りに軽く焼き鳥を食べてきたから大丈夫だよ。


心春:ああ、よかった。


瑠乃介:君の方こそ、腹ぺこなんじゃあないかい。


心春:いいの、私はいいのです、貴方様が満たされていたらそれだけで私はもういいの。


瑠乃介:よくは無いよ、きちんと滋養のあるものを食べろとお医者様も言っていたろ。


心春:でも、でも。


瑠乃介:焼き鳥を土産に包んで貰ったんだ、さあ、食べよう。


心春:嬉しいわ、瑠乃介さん、私嬉しい。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:私と心春が結婚して5年目の事だった。



心春:ごめんなさい、瑠乃介さん、おいしいです、ごめんなさい、ありがとう、瑠乃介さん、ありがとう。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:相手は文学青年の乗った自転車だった。

瑠乃介:坂道でブレーキの効かなくなったその躯体は、妻目掛けて猪突猛進してきたのだ。



心春:おいしい、これを瑠乃介さんも召し上がったのですね。おいしい。たれの甘い味がおいしい。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:命に別状は無かった。痛みを感じない妻も、なんて事ないという顔をしていた。

瑠乃介:命以外には別状しかなかった。



心春:あ、ああ、ごめんなさい、瑠乃介さん、上手く噛み切れなくてごめんなさい、瑠乃介さん。


瑠乃介:大丈夫、少し垂れただけだ。


心春:ああ、ごめんなさい、ごめんなさい、瑠乃介さん、ごめんなさい。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:妻は、物を言う達磨のようになってしまった。

瑠乃介:打ちどころが悪かったのだ、痛みを感じないのが幸いだった。

瑠乃介:妻は首から下が、動かせなくなっていた。



心春:瑠乃介さん、指に、たれが。


瑠乃介:ああ、後で洗うさ。


心春:だめ、だめです、瑠乃介さん、洗ってはだめ。


瑠乃介:そうか。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:そう言うと、心春は物欲しそうに私の指を見詰める。

瑠乃介:心春が何を欲しているのか、いや、違う。

瑠乃介:私が欲するものとして、心春があるというように思いたいという心を。

瑠乃介:私はよく理解できるようになった。



瑠乃介:舐めなさい。


心春:はい。もちろんです。どうか、どうかこちらへ。その指を、どうかこちらへ。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:一心不乱に私の指を舐める妻を、私は滑稽とは思わない。

瑠乃介:時折、慈愛に満ちた顔になる「それ」は、もはや、そうする事でしか命を感じられない山椒魚のようになってしまっているのかも知れないとさえ、私は考えている。



心春:綺麗になりました。


瑠乃介:ありがとう、心春。


心春:愛しています、瑠乃介さん。


瑠乃介:私もだよ、心春。


心春:愛してるの。


瑠乃介:わかっているよ。


心春:瑠乃介さん、私、指以外だってなんだって上手く舐められるわ。


瑠乃介:いいんだ、そのような事しなくとも。


心春:舐めたいの、なんだって、したいの。


瑠乃介:さ、今日の清拭をしよう、心春。


心春:ごめんなさい、ありがとう、ごめんなさい。


瑠乃介:お湯を沸かしてくる。


心春:うん。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:私が離れる時、妻はとても悲しい顔をする。

瑠乃介:私は、ぬるま湯と手拭いを用意すると

瑠乃介:1本の剃刀を手に持ち、心春の元へ戻る。



心春:ねえ、瑠乃介さん、そこにいる?


瑠乃介:ああ、いるとも。今戻るところだよ。


心春:ああ、嬉しい、瑠乃介さんがそこにいる。


心春:とても、とても嬉しいの。嬉しいのです。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:この瞬間、私はほんの少しだけ緊張をしながら妻の元へ戻る。



心春:ねえ、瑠乃介さん、私をね、奥さんにしてくれてありがとう、ありがとう、瑠乃介さん。


瑠乃介:なんだい、藪から棒に。


心春:私ね、ずっと、ずっとそう思っているの。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:妻の事故から、58回目の夜のことだった。

瑠乃介:私はふと、悪魔のような欲求をついに実行に移してしまった。



心春:私ね、瑠乃介さん、何をされたっていいの。


瑠乃介:何を?


心春:そう、乱暴にされたっていい。私の穴は、具合は悪いかもしれないですけれど。でも、好きにしてくれていいの。


瑠乃介:乱暴になんてしないよ。


心春:してもいいの。瑠乃介さん、愛してる。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:妻の服を少しずつ脱がせながら、ぬるま湯で湿らせた手拭いで身体を拭く。

瑠乃介:ぬるま湯とは言っても、子供が触れば熱いとにらみをつけてくるような温度だ。

瑠乃介:白く、透き通り、青筋が浮かぶ透明とも呼べる肌をぬぐっていく。



心春:愛してる、あなた、私、あなたがここに居てくれるならなんでもする。


瑠乃介:大袈裟だなあ。


心春:大袈裟なんかじゃないわ、愛してる、愛してるの。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:はじめは、右手の人差し指の皮だった。



心春:私はなんて幸せものなのかしら。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:痛みを気づかない妻には、未だにバレていないようだった。



心春:愛おしいの、瑠乃介さん、ごめんなさい、こんな女で、ごめんなさい。


瑠乃介:何を言うんだ、謝ることなんてない。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:こうして話している今も、身体を拭きながら私は幾ばくかの胸の高鳴りを隠せず、でも、顔には出してやるまいと、その悪魔のような欲求を満たし続けている。



心春:愛しています、瑠乃介さん、私、あなたのことを。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:私は、毎日少しずつ、少しずつ妻の身体を削ってみたかった。



心春:職場にも、きっと美しい女性がいるのでしょう?


瑠乃介:そんな人、居ないさ。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:と言いながら、私の手は数ミリずつ妻を削っている。



心春:言えないわ、きっと、そんな人がいたとしても、言えないもの。


瑠乃介:いないよ、そんな人はいない。愛しているのは君だけさ。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:と言いながら、私の手は数ミリずつ妻を削っている。



心春:ああ、愛してください、瑠乃介さん、嬉しい、嬉しいのです。


瑠乃介:もちろん、当然だ、愛しているよ、心春。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:と言いながら、妻は数ミリずつ削れていく。



心春:私、幸せなの。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:汗をかかず、臭くもならない妻の身体を拭きながら。

瑠乃介:剃刀の刃に力を込める。



心春:本当に、本当に幸せものだわ。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:生ハムの原木を削るみたいに。

瑠乃介:肥後守(ひごのかみ)でツンツンに尖らせた鉛筆のように。



心春:瑠乃介さん、一緒にいてくれてありがとう。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:削っては、血が止まるまで押さえ。

瑠乃介:血が止まれば、また数ミリを削っていく。



心春:幸せ。



瑠乃介:(モノローグ)

瑠乃介:妻は何も知らない。

瑠乃介:これは、素晴らしい一日のほんの数ミリ。



心春:この幸せな日々が、少しでも、長く続きますように。



瑠乃介:大袈裟だよ、心春。



心春:大袈裟なんかじゃないわ。瑠乃介さん。



瑠乃介:そうかな。よし、ほら、清拭は終わったよ。さっぱりしたかい。



心春:わからない。でもきっと、さっぱりしていて、きっと私が大型犬ならちぎれるくらいしっぽを振っているはず。



瑠乃介:目に浮かぶよ。


心春:愛してる。


瑠乃介:はいはい、今日はやけに多いね。


心春:毎日でも言い足りないの。瑠乃介さん、離れないでね。


瑠乃介:離れないよ、当たり前だろう?


心春:嬉しい、愛おしいの、ずっと、ずっと、愛してる。


瑠乃介:僕もだよ。片付けてくるね。

瑠乃介:逃げちゃだめだよ。


心春:ふふ、逃げられないわ。動けないもの。


瑠乃介:冗談さ。


心春:すき。


瑠乃介:はいはい。






心春:(モノローグ)

心春:夫は、私を深く愛してくれている。

心春:私は、なんて幸せなんだろう。


心春:痛みも、熱も、汗も無い。

心春:動かせるのは、首から上のほんの一部。


心春:ほんの数ミリしか動かせない、私の身体。



心春:『山椒魚』という小説の事を思い出す。



心春:大きくなり、動けなくなった山椒魚の物語だ。



心春:私も、山椒魚であったならよかったと思う。



心春:山椒魚のように、身体を再生させることができたなら。

心春:もしくは、もう少しだけでも身体が大きければよかった。



心春:数ミリでも、構わない。もっと大きければ。

心春:そうすれば。




心春:あの人が、私を刻んでいられる間は

心春:私の幸せは続くのだから。

心春:素晴らしい一日のほんの数ミリ。

心春:ほんの、数ミリ。



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